大映通り商店街

2021年02月15日 20:30

大映通り商店街


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京都市右京区の太秦は、かつて葛野郡太秦村と呼ばれる竹藪ばかりの土地でした。映画発祥の地と呼ばれるようになる発端は、映画初期の大スター・阪東妻三郎が竹藪の地を切り開き、1926(大正15)年に「阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」を開設したことに始まります。

その後、松竹太秦撮影所、帝キネ太秦撮影所、新興キネマ太秦撮影所、大映京都第二撮影所、東横映画撮影所など多くの撮影所が建ち、映画の街として活況を呈します。
そして映画産業が斜陽となった今も、「松竹京都撮影所」や「東映京都撮影所」、テーマパーク「東映太秦映画村」が存在し、日本のハリウッドとしての歴史を伝えています。


その太秦の地にあって、京福電気鉄道嵐山本線(通称・嵐電)の太秦広隆寺駅から帷子ノ辻駅にいたる一駅区間の約700mを、路線と併行して進んでいるのが「大映通り商店街」です。

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「大映通り商店街」はすぐ近くにあった大映京都撮影所に由来する商店街ですが、発祥は戦後に並んだ夜市からでした。
広隆寺から帷子ノ辻にいたる三条通のバイパスだった道に、毎月三回夜店が出店し、“夜店通り”という名がつき、人出も多くなりました。そして次第に市場やスーパーも道沿いに出店し、商店街としての街並みがつくられていったのです。

現在では商店街の人通りも少し寂しくなりましたが、映画の街ならではの名所や面影が今も残されています。

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商店街の路面の両端は赤茶色に彩られていますが、道の舗装は映画のフィルムを模しています。

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カメラをかたどった街頭もあり、素朴で地域に根ざした商店街の街並みが続きます。

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商店街沿いの「三吉稲荷」という小さなお稲荷さんには、日本映画の父・牧野省三を顕彰する石碑が建っています。石碑の裏には牧野省三の孫である長門裕之、津川雅彦兄弟の名前が。そして神社の敷地を囲む玉垣には「入江たか子」「伴淳三郎」など、有名俳優の名前も。

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かつて竹藪ばかりだった太秦に、人々に忘れ去られ朽ち果てていた中里八幡、三吉稲荷という二つの祠がありました。
1928(昭和3)年に太秦日活撮影所(のちの大映京都撮影所)が建てられ、祠のあるまわりの竹藪も切り開かれていくなかで、祠をねぐらにしていたキツネやタヌキなどが行き場を失いました。その姿を哀れんだ日活の関係者が中心となって1930(昭和5)年に朽ち果てていた二つの祠を新たに建てたのが現在の三吉稲荷です。
その後も周辺には次々に撮影所が建てられたことから、この神社の通称が「映画神社」となり、今も関係者が映画映像傑作祈願に訪れます。



『ガメラ』シリーズと並んで大映を代表する特撮映画のヒーロー『大魔神』の像。

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1966(昭和41)年に制作された『大魔神』は子どもに人気を博しましたが、約5mに及ぶこの像はのちになって映画のイベント用につくられたもの。その後、倉庫に眠っていた像が商店街のシンボルになるべく、2013(平成15)年にスーパーの前に復活し、買い物客を見守っています。



大映京都撮影所の跡地には大きなマンション。

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1927(昭和2)年に日本活動写真が「日活太秦撮影所」として開所し、1942(昭和17)年の戦時統合で大日本映画製作株式会社(のちの大映)に。
1971(昭和46)年の倒産後は、徳間書店の傘下となり、分社化により株式会社大映映画京都撮影所となりましたが、1986(昭和61)年には完全に撮影所も閉鎖されました。



太秦中学校にあるオスカー像と金獅子像のレプリカ。

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大映京都撮影所制作の『羅生門』(黒澤明監督、1950年)が第12回ヴェネツィア国際映画祭のグランプリ(金獅子賞)と、第24回アカデミー賞で名誉賞を受賞。この受賞を記念して金獅子像とオスカー像をモチーフにした記念碑を撮影所に建立し、その周辺は「グランプリ広場」として親しまれていました。しかし撮影所も閉鎖されて広場も消滅。
有志や地元住民がかつての栄光を偲び、2002(平成14)年、大映京都撮影所跡地でもある京都市立太秦中学校に「グランプリ広場」を復元し、金獅子像とオスカー像のレプリカが今も飾られています。


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大映通り商店街にとって今年は記念の年。1966(昭和41)年4月に有志により「大映通りショップ繁栄会」として設立され、1971(昭和46)年8月に「大映通り商店街」に改組して50年の節目となりました。



太秦ライムライト

2021年02月06日 01:29

太秦ライムライト 2014年 監督・落合賢



“日本一の斬られ役”、福本清三さんが今年1月1日に77歳で亡くなりました。15歳で東映京都撮影所の大部屋俳優となり、約60年にわたって時代劇や現代劇を支え、東映制作の映画やドラマには欠かせない存在で、「5万回斬られた男」の異名もありました。


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長年、セリフのない端役ばかりだった福本さんでしたが、代名詞ともなった「海老反り」での倒れ方や、独特のアイシャドーや眼光鋭いその風貌も相まって、短時間の出演ながらもいつしか視聴者から注目され、時代劇ファンの間では知る人ぞ知る存在に。
そして全力で演じる福本さんの姿に、ファンも密かに増えていく中、2002年にはついにハリウッド映画『ラスト サムライ』に出演。寡黙なサムライ役でトム・クルーズとも共演を果たします。
さらに2014年公開の映画『太秦ライムライト』では、「斬られ役一筋のベテラン俳優」という自らの生きざまを地でいく役で初主演。カナダ・モントリオールで開かれた第18回ファンタジア国際映画祭で日本人初の主演男優賞も受賞しました。

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『太秦ライムライト』は、福本さんの座右の銘でもある「一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ていてくれる」の言葉がまさに具現化された作品。そして太秦の時代劇に掛けた人々の思いや、チャンバラの伝統を若い人につないでほしいという強い思いであふれた傑作です。


あらすじ――
多くのチャンバラ映画やドラマを支えながらも、決してスポットライトの当たらない斬られ役に徹してきた香美山清一(福本清三)。
時代の移り変わりとともに映画やテレビから時代劇が消え、最盛期には百人以上いた斬られ役も、数十人となった太秦の撮影所。仲間も次々と辞めていく中、香美山の真摯でひたむきな稽古姿に魅了された一人の駆け出しの女優・伊賀さつき(山本千尋)。ある日、さつきは「稽古をつけてほしい」と香美山に指導を仰ぐ。
稽古のかいもあって、彼女は時代劇のエキストラからヒロインの殺陣の吹き替えを演じるようになり、ついにはヒロイン役に抜擢。愛弟子の成長を喜ぶ一方で、香美山は自らの老いを感じるようになり、引退して故郷へと帰る。
時は過ぎ、有名女優となったさつきは時代劇映画のヒロインを演じるため、久しぶりに太秦へ帰ってきた。しかし、かつての斬られ役の先輩たちの姿は撮影所にはなかった。
さつきは香美山の故郷を訪れ、もう一度戻ってきて自分と刃を交えてほしいと頼む。自らの体の限界を知る香美山は一度は断るものの、さつきの熱意に最後の復帰を決意。ヒロインとなった愛弟子に斬られるため太秦に戻る――。

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監督は落合賢氏、脚本は京都を拠点に活動する「劇団とっても便利」の大野裕之氏。
主演・福本清三さんの脇を固めるのは松方弘樹、小林稔侍、本田博太郎、合田雅吏、萬田久子といった豪華な面々。そして福本さんと同じくチャンバラを陰で支えてきた「東映剣会」からも峰蘭太郎、木下通博、柴田善行の各氏が出演しています。

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《左が東映剣会の木下通博さん。福本さん同様、味のある大部屋俳優さんでしたが2015年に亡くなっています》

さらに冒頭の新選組のシーンでは栗塚旭さんが出演し、福本さん演じる香美山が最後に斬られる劇中劇「劇場版江戸桜風雲録」の監督役には、中島貞夫監督。
福本さんと松方さん、そして中島監督は東映京都撮影所の入所が同期の間柄でした。

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《東映のやくざ映画といえば、中島貞夫監督》


そしてこの作品、何といってもヒロインに抜擢された山本千尋さんの存在がとても大きいのです。中国武術を幼少から習い、世界ジュニア武術選手権大会で金メダル獲得経験もある彼女。撮影当時は16歳だったそうですが、堂々たる演技と中国武術で培った殺陣の立ち回りが、映画のリアリティを高めています。

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そして、現実と同様、時代劇のスター(二代目尾上清十郎)を演じた松方弘樹さんの立ち回りもさすが。

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劇中の回想では、時代劇の御大・初代尾上清十郎(小林稔侍)が若かりし頃の香美山に「おまえ、斬られ方うまいな。斬られ方がうまいというのは芝居がうまいということだ」と褒めるシーンがあります。うまい斬られ役は主役を引き立たせる存在でもあるのです。
と同時に、この映画の松方さんの立ち回りを見ていると、斬る方がうまくなければ、斬られ役も引き立たないということをも感じさせてくれるのでした。



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《仕事がなくなった時代劇のベテランも、現代劇の仕出し(セリフのない登場人物)として、ロケ地へとマイクロバスで移動》


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《故郷に帰った香美山を訪ねてきたさつきに、子どもの頃の友達同士でのチャンバラでは主役を張っていた思い出を語るシーン。演技とは思えない生き生きとした福本さんの柔らかな表情も見られます》


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《映画のラストで、香美山を心配するスターの尾上に、「だんな、怖気づいたんでっか。えろう鈍りましたな」と香美山が声をかける場面。フィクションとはいえ最もドキッとしたシーンです》



誰もが主役を張りたがる世の中にあって、どの世界にあっても、福本さんのように不器用ながらも地道な努力を陰で積み、自らの道をひたむきに歩み続けている人の姿は、他人の胸を打つものです。そしてそのような人がいっときでもスポットライトを浴びれば、やはり自分のことのようにうれしいものなのです。
さらに、この映画を通して、福本さんや剣会の面々が若い人たちに伝えたかった太秦の時代劇の精神や伝統も、劇中の展開だけで終わることなく、この映画に実際にたずさわった山本千尋さんをはじめ若い役者の方たちにも伝わったことでしょう。
映画というフィクションを超えたドラマを味わえる作品であり、福本さんが亡くなった後に改めて観ると、その感慨はさらに強くなったのでした。


なお、福本さんは主演を務めたこの作品以降も、数多くの映画やドラマに出演され、文字通り生涯現役のまま格好良く旅立たれたのでした。

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ワンダーウォール

2021年01月17日 19:00

ワンダーウォール 劇場版 監督・前田悠希 2020年



現実の大学学生寮の建て替え問題を、学生側からとらえた作品という意味では視点が不公平なのかもしれません。しかし、青春の青臭さを描いた素晴らしい作品です。

もともとは2018年7月、NHK京都放送局制作による「京都発地域ドラマ」としてNHKBSプレミアムで放送された同名テレビドラマを、『ワンダーウォール 劇場版』として2020年4月に映画化して公開されました。

1913(大正2)年に竣工し、100年以上の歴史を有する“京宮大学”の学生寮“近衛寮”を舞台に、大学当局が唱える「老朽化による建て替え」か、学生が主張する「現在の建物を維持した修復」か、を巡る大学側と寮生側との対立を描いた青春物語。

もちろん、京都人ならばそのモチーフとなった建物はすぐに思い浮かびますよね。そう、京都大学「吉田寮」。
吉田寮の建て替えと退去通告問題をそのままに、フィクションと銘打ちながらも、現実に即した物語展開となっています。


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〈東大路通りから見た吉田寮の外観〉


脚本家の渡辺あやさんの秀逸な脚本、若い役者たちの新鮮な演技、劇中の音楽も魅力にあふれ、そして滋賀県蒲生郡日野町にある旧鎌掛小学校をあたかも本物の吉田寮のようにしつらえた美術さんの仕事にも脱帽です。

廃墟を思わせる伝統ある建物と、完全な自治で運営されている寮の存在にあこがれて入寮してきた学生たちが主人公。

変人の巣窟とよばれ、ごみや不用品が散乱する寮内の汚さとは裏腹に、“近衛寮”は実際の吉田寮同様、寮生間の敬語禁止、ジェンダーフリーのトイレ、多数決をとらずに全会一致で物事を決める自治会のあり方など、ある種、原始共産主義やユートピアをも想起させる空間なのです(もちろんそれは、月2500円という格安の寮費と、学生ばかりが集う場所だから実現する世界ではあるのですが…)。


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〈自治会での話し合いの様子〉


しかし、大学当局は10年に及ぶ学生との話し合いを一方的に終了し、寮の建て替えを決断。2017年には寮からの寮生の退去を通告し、新たな入寮生の募集も停止します。そして団体交渉の窓口となる大学学生課の受付にはいつしかガラス張りの“壁”ができ、担当者は姿を現さず話し合いにもならない状況に。タイトルの「ワンダーウォール」とは、意思疎通を阻むこの壁のことを意味しています。

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〈学生課に設けられたガラス張りの壁〉


寮がつぶされることに必死にあらがおうとする学生もいれば、寮内での麻雀に熱中し「自分は卒業するから関係ない」「大学相手に勝ち目はない」と、あきらめる寮生や関心のない学生もいて、学生同士の葛藤が時にぶつかり合い…。

主人公の寮生たちが、直面する社会の不条理に対して不器用にあらがう姿を、単なるシリアスなドラマにせず、ウイットに富んだユーモアも織り交ぜながら作品として仕上げている点も好感が持てました。

個人的には物語終盤の茶室だった部屋での明け方のお点前のシーンが、とても印象的。実際に吉田寮には茶室の役割を果たす部屋がかつて存在したのでした。

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〈寮生同士の喧嘩の後の朝のお茶会〉


寮の老朽化もさることながら、劇中でも登場人物が説明しているように「寮の跡地に国からの予算を獲得しやすい医学部か工学部の講義棟などを建てたい」というのが大学側の本当の思惑なのでしょう。国立大学法人の経営の厳しさを考えれば、まあ、理解できない事情でもないのです…。

ただ、吉田寮、もとい“近衛寮”のような存在は、大学の組織の中にある“車のハンドルの遊び”のような存在で、速さだけを求めるフォーミュラーカーのような、ハンドルの遊びもない息の詰まるレースだけに価値を見出す経済至上主義に対して、通行人のようなか弱き他者にも理解を示すことのできる“弱者そのものの目線”といった存在や場所も、組織の中には必要だと思うのです。
大学時代の寮生活というモラトリアムに身を置くからこそ得られる、損得勘定を抜きにした友情や自由や協調。そんな時代や場所が人生の一時期に、そしてアカデミックな組織の一部には必要だとも思うのです。時代錯誤の牧歌的な…ネ。

経済や政治や社会に相対する、文化や芸術のあり方にも通じることで、ある意味では社会の縮図、人のあり方を考える上でもこの映画を捉える事もできます。だからこそ、学生寮に縁もゆかりもない人たちだって、ノスタルジーや憧れをもってこの映画や寮の存在に共感や感動もできるのでしょう。

いち京都人、いえ、単なるいち個人として乱暴な言い方をすれば、ノーベル賞受賞者を何人輩出したということも重要でしょうが、最高学府の京都大学の魅力の三分の一ほどは、最高学府でありながら、あの汚らしい吉田寮が、あの場所で、あのままの姿で存在してきた大学の懐の深さと寛容さにあったと思うのです…。

ただ…現実の吉田寮を見ていてもわかるように、あまりに汚れ、住人たちが将来の建物の行く末や、メンテナンスを気にかけることもなく、建物が朽ち果てていくにまかせていたことも事実でしょう。大学側との建て替えの10年に及ぶ話し合いの間、寮の存続に関心がない寮生も多くいたことでしょうし、寮そのものの存在意義を果たしてどれほど真剣に考えていたのかと、疑問に思わざるを得ないのも事実で…。


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ちなみに映画の最後でも触れられていますが、大学当局は退寮しない学生を相手に明け渡しの民事訴訟を起こし、現在も係争中。そして吉田寮は寮生を減らしながらもかろうじて現在も存続しています。



坂口安吾と京都

2021年01月13日 21:27

坂口安吾と京都



評論「堕落論」や小説「白痴」で知られる無頼派の作家・坂口安吾(1906年―1955年)は、1937(昭和12)年2月から翌年6月までの1年4カ月、京都伏見で過ごしました。

1931(昭和6)年、坂口が25歳の時に処女作「木枯の酒倉から」を発表。その後、「風博士」で作家として認められましたが、私生活ではアテネ・フランセ時代の畏友の死、酒場のマダム・お安との同棲や解消、恋人だった作家・矢田津世子との絶縁、さらに「風博士」をいち早く激賞して坂口が世に出るきっかけをつくった牧野信一の自殺があり、二十代後半の彼の精神は不安定な状況に陥ります。

坂口安吾は自らの人生においてたびたび流浪の生活に入りますが、それは人間関係をも含めた一切を捨てて孤独になることで、新たな希望を得ようと考えていたから。

 京都に住もうと思ったのは、京都という町に特に意味があるためではなかった。東京にいることが、ただ、やりきれなくなったのだ。 〈「古都」より〉


坂口はそれまでにも1932(昭和7)年3月、京都帝国大学卒業間近の大岡昇平を訪ね、京都に1カ月半ほど滞在したこともありました。しかし31歳での京都行きには、人間関係を清算して孤独になることへの決意があり、執筆途中の長編小説『吹雪物語』の原稿と、千枚ばかりの原稿用紙をたずさえての京都行きでした。


 昭和十二年の初冬から翌年の初夏まで、僕は京都に住んでいた。京都へ行ってどうしようという目当もなく、書きかけの長篇小説と千枚の原稿用紙の外にはタオルや歯ブラシすら持たないといういでたちで、とにかく隠岐和一を訪ね、部屋でも探してもらって、孤独の中で小説を書きあげるつもりであった。まったく、思いだしてみると、孤独ということがただ一筋に、なつかしかったようである。 〈「日本文化私観」より〉


当初、友人の隠岐和一(小説家・編集者)の別宅がある嵯峨に三週間ほど滞在し、その後、伏見区稲荷鳥居前町にある計理士事務所の二階に部屋を借ります。

計理士の事務所の二階で、八畳と四畳半で七円なのだ。火薬庫の前だから特に安いのかと思ったら、伏見という所は何でも安い所であった。しかし、この二階には、そう長くいなかった。そうして、語るべきこともない。 〈「古都」より〉



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〈「語るべきこともない」という最初に住んだ計理士の事務所。現在はおしゃれな民宿「安吾」に〉

「火薬庫の前」とは、道を隔てて大日本帝国陸軍第十六師団の武器庫があったことから。この最初の下宿に住んで3カ月後の5月には、京阪電車の稲荷駅(現在の伏見稲荷駅)すぐ近くの「人生の最後の袋小路」と形容する弁当仕出屋「上田食堂」の二階へと引っ越します。

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〈京阪電車の伏見稲荷駅〉

路地は袋小路で、突き当って曲ると、弁当仕出屋と曖昧旅館が並び、それがどんづまりになっている。こんな汚い暗い路地へ客がくることがあるのだろうか。家はいくらか傾いた感じで、壁はくずれ、羽目板ははげて、家の中はまっくらだ。客ばかりではない。人が一人迷い込むことすら有り得ないようなところであった。 〈「古都」より〉


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〈「どんづまりになっている」という路地〉


そして伏見について、「この辺は、京都のゴミの溜りのようなものであって、新京極辺で働いている酒場の女も、気のきかない女に限って、みんなここに住んでいる」(「古都」)と形容しますが、この「ゴミの溜まり」のような場所をそれなりに気に入っていたようで、弁当仕出屋の二階に住んでいた頃を題材とした短編小説をいくつか発表しています。

それが、「囲碁修業」(1938年)、「古都」(1941年)、「孤独閑談」(1943年)です。

食堂を営む年の離れた不釣り合いな夫婦、そしてその娘の家出の顛末、碁をたしなむ坂口が食堂の親爺をそそのかして二階座敷で碁会所を開き、その碁会所に集まる人間模様など、「ゴミの溜まり」のような場所で生きる人たちの姿を描いた作品です。

坂口安吾は長編小説執筆の悪夢にうなされながらも、貧乏書生がたくさんいた当時の京都では絵描きの卵で通用し、近所の人からも「先生」と呼ばれ、ぼさぼさの髪とドテラ姿のまま、友人・隠岐の接待で祇園のお茶屋へも赴いていたのだとか。
そして伏見稲荷大社のある稲荷山から東福寺へ抜け、三十三間堂を通り、宮川町から四条通り、新京極へと散歩に出かけるなど、気ままに過ごしていた様子も作品からはうかがえます。

当初の京都行きの目的だった千枚の長編小説は満足なものにならず、「二度と立ち上る日を予期できないほど、打ちのめされ、絶望に沈まざるを得なかった」(「囲碁修業」)と、碁に打ち込むことで、その落胆を消し去る日々。
「散歩といえば、古本屋で碁の本を探すだけで、京都中の碁の古本は、あらかた僕が買占めたようなものだ。その代り、二ヵ月ぐらいたつと、とにかく、田舎初段に三目ぐらいで打てるようになった」(「古都」)と、小説の筆は進まずとも囲碁の腕は上達したのです。


そして「堕落論」と並んで坂口安吾を代表する評論「日本文化私観」(1942年)も、この1年余りの京都時代がなければ、書かれなかったであろう作品です。

「日本文化私観」は“車折神社の願掛けの小石の山”“車折神社の真裏にあるうらぶれた嵐山劇場”“不敬罪に問われダイナマイトで爆破された大本教の豪壮な本部”“宇治にある黄檗宗万福寺の普茶料理”“古来孤独な思想を暗示してきた寺院建築を有する真宗の寺(京都の両本願寺)”“三十三間堂の太閤塀”など、建前ではない京都の風景を織り交ぜながら、日本文化論や日本人論を坂口特有のアイロニーをたずさえて語った評論で、伏見稲荷の千本鳥居についても、「今も尚、車折神社の石の冷めたさは僕の手に残り、伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである」と評しています。

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〈伏見稲荷の千本鳥居〉


なお、坂口は1946(昭和21)年4月に『新潮』に発表した評論「堕落論」と、同年6月の同誌に発表した小説「白痴」によって脚光を浴び、一躍人気作家となりますが、その後はヒロポンを服用しながら寝ずに創作に没頭。1948年6月には友人だった太宰治の自殺も重なり、鬱病的精神状態に陥ります。
そして、この状況を打開するために、新たな長編小説(『火』後の『にっぽん物語』)の執筆を決意。その長編小説の舞台となる京都へと1948(昭和23)年12月31日に出かけるものの、たどり着いたときには発熱して旅館で寝込む状況にあり、年が明けた1月7日には東京へ戻ってくるのです。

その後も5年にわたる芥川賞選考委員(1949~54)を務め、エッセイ「安吾巷談」(1950年)、短編「夜長姫と耳男」(1952年)などを発表。1955(昭和30)年2月に49歳の若さで亡くなりますが、京都は彼の文学作品を語る上でも重要な土地でもありました。




古都(2016年) その2

2021年01月05日 22:11


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《佐田家の外観は、1822年から呉服商を営み市指定有形文化財指定の「長江家住宅」》


京都らしい風情を残す呉服問屋の佐田家もその内情は、町家見学の外国人観光客を主人みずからが接待し、女将である千恵子は義父の呉服店で着付けのアルバイト。そして不動産業者がビルへの建て替えを持ち掛けに訪れるといった切実な台所事情もつぶさに描いています。
さらに祖父の代から取引のあった腕のいい西陣の織屋の廃業など、織物業界の衰退も表現しながら、観光客が憧れる町家の外観からは知ることのできない、「家」や「家業」を存続させる難しさを映し出しているのです。

その一方で、「家」をつないできた先人への感謝の気持ちを、毎朝の仏壇へのお給仕やお墓参りの風景として盛り込むなど、町家を守る人々の生の声を脚本に落とし込んだ“町家の日常”が、作品のオリジナリティと奥深さを作り出しているようにも感じました。

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建て替えを促す業者に、千恵子の夫で店主の竜助(伊原剛志)は「うちは楽がしたい思うて、この商いしてるんとちがうさかい」と語る場面。大店の呉服店の長男でありながら、「本当の商売がしたい」と婿養子として佐田商店に入った竜助。
損得勘定だけではなく、商売への矜持を示すこの言葉こそが、家と家業を今日につないできたのでしょう。しかし、いまや誇りだけでもつないでいくことのできない難しい時代に・・・。

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就職活動に苦戦する娘のことを思って、幼馴染の人事担当者や、義父のコネを頼り、内定をもらおうと奔走する千恵子。その甲斐もあって、室町商事への内定が決まりますが、舞は内定を辞退。「お母さんが気にしてんのは佐田の家の顔やろ。自分が里子で何も言えんかったからいうて、私に押し付けんといて」と雨の中、家を飛び出します。
舞が向かった先は嵯峨野に隠居している祖父の佐田太吉郎(奥田瑛二)の元。太吉郎は舞に「無理に家継がんでもええんとちゃうか」と慰めます。

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かたや、パリに住む結衣は自分を心配しすぎる母を疎ましく思っていますが、パリを訪れた苗子に「ここに来たら、何か描ける。そう思うてパリまで来た。そやけどほんまにあほや。小さい小さい世界の中で一番やて思い上がってた。もう何を描けばええのかわからへん」と弱気な姿を見せます。
苗子は「いつでも帰ってきたらええ。せやけどな結衣、ほんまにそれでええんか。いっぺん、絵描き始めた時のこと思い出してみたらええ」と勇気づけるのです。

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書道を習っている舞は、師事する先生から個展の手伝いのためにパリについてきてほしいと頼まれますが、パリ行きを躊躇。アメリカに留学経験のある父の竜助は「京都の人間は外に出てみいひんと見えへんもんがあるからなあ。ほんまもんに囲まれて、目だけは肥えてる。そやけど自分で何ができる、何がしたい、それがわからんようになる」とフランス行きを後押しします。

双子の姉妹が揃いで持つ北山杉の描かれた帯を千恵子は娘に譲り、パリに赴いた舞は、その帯を締めて清興で日本舞踊を舞い、喝采を受けます。
一方、母に励まされた結衣は初心に戻り、一番好きだった故郷の北山杉の風景を描き、友人たちから称賛されるのでした。

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そして京都では、千恵子が室町商事に赴き、「娘の思うようにさせてやりたいと思うてます」と内定辞退の詫びを入れ・・・。

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両親の喜ぶ結婚をして家を継ぐのが当たり前だと思っていた千恵子は、結婚前、竜助から「千恵子さんは自分がないなあ」と言われたこともありました。
超えることのできなかった家や家業という京都に生まれた者の“宿命”から抜け出し、娘のためを思って自分の意志で行動に移したこの時こそが、千恵子自身が「私」というものを持った瞬間でした。


そしてパリの教会を訪れた舞は、教会でたたずんでいた結衣と出会い、お互いに見つめ合うシーンで物語は終了します。次の世代の物語が始まる余韻を残して・・・。

⑯ 古都(2016年)(8530)_R



今作品では「親子の情や葛藤」「家の存続」という現代の課題に主題を求めながらも、華道、茶道、書道、坐禅など日本の伝統文化も挿入。さらに映像ではあまり目にすることのできない賀茂川上流にある岩屋山志明院での撮影など、オールロケーションにもこだわり、いまだ京都に残る伝統や風景を発信しようという意気込みも感じられます。

⑰ 古都(2016年)(8219)_R
《岩屋山志明院での回想シーン》


そして原作で重要な役割を持つ、千恵子が図案を考えて苗子に贈った北山杉をあしらった帯が、この作品では二度と会うことのない双子の姉妹がお互いに揃いで大切に持ち続けているエピソードとして活かされるなど、古典『古都』の世界観を受け継ぎ、現代へよみがえらせた意欲作と言えます。